⼀流営業マンにして、ロボットプログラミングをこなす松本社⻑の原動⼒は、持ち前の好奇⼼と集中⼒にある。
幼少時代にもそれが遺憾なく発揮されていたエピソードがある。
⼩学校の遠⾜で⾏った海で巨⼤クラゲを⾒つけた松本少年は、晩秋の寒空の中、服のまま⼊⽔しクラゲを確保。
しかし海から上がってきた彼は⾝体中をクラゲに刺されており、その後しばらく⾼熱と痺れで寝込むことになった。
また別の⽇には⾃宅で壁のソケットに⾖電球を挿しこんで破裂させ、ご両親にこっぴどく叱られたそうだ。
ただ、本⼈はいたずらという意識はまったくなく、「僕にとっては⽴派な探究や実験だったんですよ!
と⼤真⾯⽬に語る。
やはりこの頃からただ者ではなかったようだ。
新卒で⼊社して11年務めた会社では営業成績も良かったため、松本さんには営業マンとしての⾃信があった。
やる気にも満ちあふれていた。
しかし、新しい職場ではこれまでの「当たり前」がまったく通⽤しなかったのだ。
前職では決まった取引先へのルート営業だったものが新規開拓営業に、また社内評価も年功序列だったものが評価年俸制になるなど、同じ営業職でもこれまでとはまるで違う世界。
⾃信もプライドもどんどん萎んでいった。
「⾃分がとても⼩さな世界しか知らなかったことを思い知らされました」と語る松本さん、⼊社から半年経った頃にはストレスからチック症状が出てしまうようになり、⼼⾝ともにどん底の状態となっていた。
⼤きなピンチを救ってくれたのは、持ち前の集中⼒と、少年時代に何度か引っ越しや転校をしたことから⾝につけた環境適応能⼒だった。
まずは初⼼に返ろうと、それまでの経験を いったん脇に置き、新しい環境に適応していくことだけに全⼒で集中した。
⽬の前のことに全⼒で向き合うことで、早々に気持ちを切り替えることができ、そこからは新しい会社のやり⽅を1からコツコツ学んで着実に知見とノウハウを身につけていった。
このメンタルの強さと適応能⼒の⾼さが、後に松本さんを再び救うことになる。
こうして波乱の幕開けで始まった松本さんの社会⼈セカンドステージだが、転職した翌年からは彼の本領が発揮されていく。
分析スキルや戦略の⽴て⽅など新しい仕事のノウハウを⾝につけ、そこに前職で培った電気分野の専⾨知識という⾃分の武器を融合させていった。
独⾃の営業スタイルが確⽴されるにつれ、なくしていた⾃信も戻ってきた。
そんな中、海外への事業展開の話が浮上した。
実は以前から⼀度は海外で暮らしてみたいという夢があった松本さんは、即決でこのプロジェクトへの参加を決めた。
赴任先は微笑みの国タイランド。
⻑年の夢が叶う喜びを胸に、意気揚々と南国の地に降り⽴った。
念願の海外勤務、任期は短くても3年。
この地でどんな⾵に過ごしていこうかと理想の海外ライフを描きながら、毎⽇を刺激的に過ごしていた。
タイでの⽣活もプロジェクトもすべて順調に進んでいた。少なくとも松本さんはそう感じていた。
しかし、悲報は突然やってきた。
会社の⽅針転換のため、タイでのプロジェクト⾃体が中⽌となってしまったのだ。赴任からわずか半年、「何も成し遂げずに終わってしまった・・・
。
帰国の辞令を受けた松本さんの胸中には計り知れないほどの悔しさが渦巻いていた。
その無念は、「このまま今の仕事を続けても良いのだろうか」という迷いと共に、帰国した後もずっと⼼の中でくすぶり続けていた。
タイ⽣活が2年⽬になる頃には、⽇系企業から⼤⼝の受注が取れる様になってきていたし、社員との親睦も深まっていた。
中でも英語が堪能で優秀なSさんは、いつしか松本社⻑にとって⽋かせないパートナーとなっていた。
ある時Sさんから「制御盤技術を教えるビジネスを⽴ち上げたい」と相談があった。
Sさんの教える技術は素晴らしく、社外でも評判だったため、親会社が出資して株を折半する形で社内起業が成⽴した。
Sさんはプレミアエンジニアリングセンターと⾃分の会社の⼆束のわらじを履く事になったが、経営は順調で、新しい会社はすぐに軌道に乗り始めた。何もかもが順調だった。
そんなある⽇、Sさんが社内ベンチャーで⽴ち上げた⾃分の会社を買い取り、独⽴したいと
⾔い出した。
突然の申し出に松本社⻑は驚いた。それは親会社に対する⼤きな裏切り⾏為なのだ。
親会社は即刻Sさんを解雇したが、Sさんは諦めなかった。
新しく会社を設⽴すると、今度はプレミアエンジニアリングセンターの社員を次々と引き抜きを持ちかけた。
誘われた社員の多くがSさんの会社に移り、そして残っていた他の社員もSさんがいないならと次々に退社してしまったのだ。
もちろん松本社⻑は必死に社員たちを説得したが、誰1⼈応じることはなく、ついに誰もいなくなった。
絆が深まった、万事うまくいっていると感じていた最中の晴天の霹靂だった。
1⼈残された絶望の中で、松本さんが強烈に突きつけられたのは経営者としての⾃⾝の⽢さだった。
プレミアエンジニアリングセンターという会社の肝は「制御盤を製作する技術」 だった。
しかし元々営業マンであった松本さんは、販路を広げる営業活動に注⼒しており、技術⾯はSさんをはじめとする他の従業員に完全に任せていた。
会社経営は何が起こるかわからない。
昨⽇まで笑顔を向けていた社員たちが翌⽇こぞって辞めてしまう、想定もしていなかった悪夢のような出来事が現実として起こったのだ。
「ビジネスで起こり得る当然のリスクを考えられなかった」
その時の彼は親会社から与えられた「経営者」というポジションの、その枠の中で仕事をしていたことに気付かされたと⾔う。
「やはり⾃分で1から築きあげてこそ、細部まで⾎⾁を注ぐ覚悟で臨めるのではないか」⼤きな絶望の中で、彼はビジネスの真髄を⾒いだしたのだ。
「いつ誰がいなくなっても困らないように、会社の肝となる部分は経営者である⾃分がしっかり握っておかなければいけない」
この時の悔しい体験が、いまの松本社⻑の「圧倒的な技術者であり圧倒的な営業マン」という両⼑スタイルに繋がっている。