⼀部上場企業から海外移住、松本社⻑の紆余曲折な起業物語

いま製造業を中⼼に急速に活躍の場が広がっている協働ロボット。

中でも視覚を持ち、フレキシブルな作業を得意とするテックマン社製のロボットは、他の協働ロボットにはない魅⼒がある。
そんなテックマンロボットの可能性に魅了され、国内の製造業界の労働⼒⾜を救うべく、テックマンロボットの⽇本代理店として会社を興した男がいる。
プレミアエンジニアリング株式会社の松本⼤亮社⻑だ。

優秀な営業マンである彼はテックマンを研究し尽くし、プログラミングや技術提案もこなす。営業マンでありエンジニア・・・このスタイルを頑なに貫く彼の想い、そして社名に込められた決意、松本社⻑の起業までの波乱な軌跡を追った。

起業ものがたり

⼈並み外れた好奇⼼と集中⼒は幼少時代から
⼀流営業マンにして、ロボットプログラミングをこなす松本社⻑の原動⼒は、持ち前の好奇⼼と集中⼒にある。
幼少時代にもそれが遺憾なく発揮されていたエピソードがある。

⼩学校の遠⾜で⾏った海で巨⼤クラゲを⾒つけた松本少年は、晩秋の寒空の中、服のまま⼊⽔しクラゲを確保。
しかし海から上がってきた彼は⾝体中をクラゲに刺されており、その後しばらく⾼熱と痺れで寝込むことになった。

また別の⽇には⾃宅で壁のソケットに⾖電球を挿しこんで破裂させ、ご両親にこっぴどく叱られたそうだ。
ただ、本⼈はいたずらという意識はまったくなく、「僕にとっては⽴派な探究や実験だったんですよ!
と⼤真⾯⽬に語る。
やはりこの頃からただ者ではなかったようだ。
社会⼈⽣活のはじまりと1度⽬の転機
向こう⾒ずな少年も無事に⼤学を卒業。
彼が就職先に選んだのは、⽕災報知器メーカーだった。
入社後は設計部に配属された。
ここでは法律に基づき、建物内のどこにいくつ火災感知器を取り付けるかを、建築図面に反映させるという専門的な仕事を行っていた。

3年⽬に営業職に異動したが、人員不足もあり、建築現場での感知器取り付け作業も行った。
今ほど就業規則が重要視されていなかった当時は、徹夜作業は当たり前。
残業代も出ない中、建築現場で仮眠を取るような毎日を送っていた。

ある時、松本さんは新製品を設置する現場監督を任された。
これまで社内では取り扱いがなかったため、設置の事例もノウハウもなく、とても苦労したという。
松本さんは試行錯誤を繰り返しながら、複数の現場を担当した。
知識を磨き、経験を積むことでその製品のことは誰よりも詳しくなった。
同時に、自分の積み上げてきたものが自社のオリジルノウハウとして定着していった。

年次に関係なくチャレンジし、0を1に進めることができれば、自分が中心となって活躍できる場や機会が広がっていくことを、その経験を通じて学んだと言う。

現場での経験とこのチャレンジ精神を営業活動にも活かし、松本さんはいつしか若⼿の中ではトップクラスの成績を修めるようになっていった。
会社員としての⽣活は順⾵満帆だった。

そんな松本さんにある⽇、⼤きな転機が訪れる。
偶然⽬にしたある企業のホームページに、今の会社にはない戦略的な営業や経営の⼿法が掲載されていた。
その記事にくぎ付けになり、朝⽅まで読みふけった松本さんの胸に「この会社で働いてみたい!」という強い想いが湧き起こる。
思い⽴ったら即⾏動の松本さんは、これまでの安定した⽣活を捨ててその企業に転職をした。
33歳の春のこと。
が、⾶び込んだ先にあったのはなんとも過酷な現実だった。
砕かれた⾃信とリスタート
新卒で⼊社して11年務めた会社では営業成績も良かったため、松本さんには営業マンとしての⾃信があった。
やる気にも満ちあふれていた。
しかし、新しい職場ではこれまでの「当たり前」がまったく通⽤しなかったのだ。
前職では決まった取引先へのルート営業だったものが新規開拓営業に、また社内評価も年功序列だったものが評価年俸制になるなど、同じ営業職でもこれまでとはまるで違う世界。
⾃信もプライドもどんどん萎んでいった。

「⾃分がとても⼩さな世界しか知らなかったことを思い知らされました」と語る松本さん、⼊社から半年経った頃にはストレスからチック症状が出てしまうようになり、⼼⾝ともにどん底の状態となっていた。

⼤きなピンチを救ってくれたのは、持ち前の集中⼒と、少年時代に何度か引っ越しや転校をしたことから⾝につけた環境適応能⼒だった。
まずは初⼼に返ろうと、それまでの経験を いったん脇に置き、新しい環境に適応していくことだけに全⼒で集中した。
⽬の前のことに全⼒で向き合うことで、早々に気持ちを切り替えることができ、そこからは新しい会社のやり⽅を1からコツコツ学んで着実に知見とノウハウを身につけていった。
このメンタルの強さと適応能⼒の⾼さが、後に松本さんを再び救うことになる。
憧れの海外勤務はうたかたの夢?
こうして波乱の幕開けで始まった松本さんの社会⼈セカンドステージだが、転職した翌年からは彼の本領が発揮されていく。
分析スキルや戦略の⽴て⽅など新しい仕事のノウハウを⾝につけ、そこに前職で培った電気分野の専⾨知識という⾃分の武器を融合させていった。
独⾃の営業スタイルが確⽴されるにつれ、なくしていた⾃信も戻ってきた。

そんな中、海外への事業展開の話が浮上した。
実は以前から⼀度は海外で暮らしてみたいという夢があった松本さんは、即決でこのプロジェクトへの参加を決めた。
赴任先は微笑みの国タイランド。
⻑年の夢が叶う喜びを胸に、意気揚々と南国の地に降り⽴った。

念願の海外勤務、任期は短くても3年。
この地でどんな⾵に過ごしていこうかと理想の海外ライフを描きながら、毎⽇を刺激的に過ごしていた。
タイでの⽣活もプロジェクトもすべて順調に進んでいた。少なくとも松本さんはそう感じていた。

しかし、悲報は突然やってきた。
会社の⽅針転換のため、タイでのプロジェクト⾃体が中⽌となってしまったのだ。赴任からわずか半年、「何も成し遂げずに終わってしまった・・・ 。
帰国の辞令を受けた松本さんの胸中には計り知れないほどの悔しさが渦巻いていた。

その無念は、「このまま今の仕事を続けても良いのだろうか」という迷いと共に、帰国した後もずっと⼼の中でくすぶり続けていた。
悔いのない⼈⽣のための決断
松本さんが働いていた会社では、経営⼈材の育成に⼒を⼊れていた。
そんな社⾵の中で、いつしか彼も「起業して⾃分の会社を持ちたい、 という夢を抱くようになっていた。

海外事業からの撤退時に感じた迷いはますます⼤きくなり、ついに松本さんは会社を辞める決意をする。
転職先はタイのローカル企業で、当時としては珍しく社内ベンチャーを取り⼊れている会社だった。

「海外で⽣活したい」「起業したい」という松本さんの2つの⼤きな夢を叶えてくれる舞台にピッタリだったが、懸念は給料が三分の⼀に激減するということだった。

退職を告げたとき、⼤幅な収⼊減となる松本さんの決断は、同僚にも上司にもなかなか理解してもらえなかった。
しかし彼の気持ちは揺るがなかった。

「⼀度きりの⼈⽣!お⾦よりも⼤ なものがきっとある!後悔のないようにやりたい事はやろう!」 2014年の冬、想いに賛同してくれた家族とともに、持ち家も家具もすべて処分して、段ボールわずか10箱を携えて再びバンコクの地に戻った。やり残した夢を追いかけて・・・。
タイでの初出勤
2度⽬のタイでの⽣活は、前回の滞在とはまるで勝⼿が違っていた。
初出社の⽇、緊張しながらCEO室のドアを叩くと、さわやかな笑顔で迎えてくれたCEOから⾞のキーを差し出された。
以前駐在員として働いた際は、移動はタクシー、家探しは⽇本⼈の不動産会社など、不慣れな海外⽣活をサポートする仕組みがたくさん⽤意されていた。
がしかし、現地採⽤となると⽣活もすべて⾃分たちでこなさなければならなかった。

バンコクでは乱暴な運転をする⾞が多いのだが、それでも仕事で必要であれば⾃分で運転しなければならない。
当然と⾔えば当然だが、差し出されたキーがその現実を象徴しているような気がした。
⼀瞬の⾝いとともに、海外で働くという覚悟がしっかりと固まった瞬間だった。

起業を⽬ す松本さんに与えられたのは、複数ある⼦会社のうちの1社の経営者、いわゆる雇われ社⻑的なポジションだった。
「プレミアエンジニアリングセンター」という名の製造会社で、⼯場で使う制御盤を製作していた。
そう、のちに彼は⾃分の会社にこの社名をつけることになるが、そこには松本さんがここでの経験から学んだ並々ならぬ想いと決意が込められているのだ。

経営を任された松本さんが最初に⼿掛けたのは、現地⽇本企業の開拓だった。
⽇本語のホームページを作成し、⽇本で⾝につけた営業⼒を駆使して⽇系企業へ⾃ら営業活動を⾏い、少しずつ取引先を増やしていった。

また、社員との交流にも⼒を注いだ。最初は⾔葉が通じず、ほとんどコミュニケーションが取れない状態だった。
そこで松本さんは「私にタイ語を教えてください」というタイ語と簡単な挨拶を覚え、毎⽇積極的にコミュニケーションを取り続けた。
社員同⼠の飲み会にも必ず出席し、その席で出された⾍料理も気合いで⾷べるなど、⾝体も張って親睦をはかっていった。
その甲斐あって、はじめは距離を取っていた社員たちも徐々に⼼を許してくれるようになっていった。

2年⽬の悲劇
タイ⽣活が2年⽬になる頃には、⽇系企業から⼤⼝の受注が取れる様になってきていたし、社員との親睦も深まっていた。
中でも英語が堪能で優秀なSさんは、いつしか松本社⻑にとって⽋かせないパートナーとなっていた。

ある時Sさんから「制御盤技術を教えるビジネスを⽴ち上げたい」と相談があった。
Sさんの教える技術は素晴らしく、社外でも評判だったため、親会社が出資して株を折半する形で社内起業が成⽴した。

Sさんはプレミアエンジニアリングセンターと⾃分の会社の⼆束のわらじを履く事になったが、経営は順調で、新しい会社はすぐに軌道に乗り始めた。何もかもが順調だった。

そんなある⽇、Sさんが社内ベンチャーで⽴ち上げた⾃分の会社を買い取り、独⽴したいと ⾔い出した。
突然の申し出に松本社⻑は驚いた。それは親会社に対する⼤きな裏切り⾏為なのだ。
親会社は即刻Sさんを解雇したが、Sさんは諦めなかった。
新しく会社を設⽴すると、今度はプレミアエンジニアリングセンターの社員を次々と引き抜きを持ちかけた。
誘われた社員の多くがSさんの会社に移り、そして残っていた他の社員もSさんがいないならと次々に退社してしまったのだ。

もちろん松本社⻑は必死に社員たちを説得したが、誰1⼈応じることはなく、ついに誰もいなくなった。
絆が深まった、万事うまくいっていると感じていた最中の晴天の霹靂だった。
雇われ社⻑という⽢え
1⼈残された絶望の中で、松本さんが強烈に突きつけられたのは経営者としての⾃⾝の⽢さだった。
プレミアエンジニアリングセンターという会社の肝は「制御盤を製作する技術」 だった。
しかし元々営業マンであった松本さんは、販路を広げる営業活動に注⼒しており、技術⾯はSさんをはじめとする他の従業員に完全に任せていた。
会社経営は何が起こるかわからない。
昨⽇まで笑顔を向けていた社員たちが翌⽇こぞって辞めてしまう、想定もしていなかった悪夢のような出来事が現実として起こったのだ。

「ビジネスで起こり得る当然のリスクを考えられなかった」 その時の彼は親会社から与えられた「経営者」というポジションの、その枠の中で仕事をしていたことに気付かされたと⾔う。
「やはり⾃分で1から築きあげてこそ、細部まで⾎⾁を注ぐ覚悟で臨めるのではないか」⼤きな絶望の中で、彼はビジネスの真髄を⾒いだしたのだ。

「いつ誰がいなくなっても困らないように、会社の肝となる部分は経営者である⾃分がしっかり握っておかなければいけない」

この時の悔しい体験が、いまの松本社⻑の「圧倒的な技術者であり圧倒的な営業マン」という両⼑スタイルに繋がっている。
再出発と運命の出逢い
技術ストックがなくなってしまったプレミアエンジニアリングセンターは、結局看板を下ろすことになった。
⼤きな失意の中、タイを引き上げる事も覚悟していた松本さんだったが、親会社の温情で営業責任者として残れることになった。
さらに、1から起業できる様に新しいビジネス探しの許可も出してもらえた。
引き続きタイでの⽣活を続けられることになった彼は、これまで以上に営業に励み、⼤⼝顧客や新規開拓に勤しんだ。
⼀⽅で新ビジネスのチャンスにも絶えず⽬を光らせていた。

2017年の12⽉、⽇本で開催されたロボット展を訪れたことが、その後の松本さんの⼈⽣の⼤きな転換点となる。
当時は協働ロボット⾃体を知らなかった松本さんだったが、そこではじめて「テックマン」に出逢う。
多種多様なロボットの中でも、テックマンロボットは他にはない魅⼒を放っていた。

「タイで代理店をやらせていただけませんか」と躊躇なく交渉に踏み切り、翌年2⽉には松本さんの働く会社がタイでのテックマン代理店となった。
仕事の軸⾜をテックマンに移し、タイの⽇系企業にテックマンロボットを売り込みにいく ⽇々。
過去の失敗から、営業活動だけでなく技術を⾝に着けることにも注⼒した。
毎⽇、仕事が終わるとテックマンに触れながらその技術を学んだ。
いつしか社内の誰よりもテックマンを熟知するようになり、2018年末には東南アジアで売上No2という偉業を成し遂げた。
タイから⽇本へ
同じ頃、⽇本で⾏われた展⽰会で⽇本企業の⽅々と接する機会があった。
話をしてみるとタイの⽇経企業よりも、⽇本市場のほうが協働ロボットのニーズが⾼いのではないかと感じた。
1つには慢性的で深刻な⼈⼿ ⾜であること、そしてタイと⽐較すると⼈件費も物価も⾼いこと。
実は物価の安いタイでは、テックマンロボット本体の価格への抵抗が⼤きな壁にもなっていたのだ。

タイに移住して5年が経過し、そろそろ⾃分でビジネスを⽴ち上げたいという想いが⾼まっていた頃だった。

多くの製造業の現場を⾒てきた松本さんは、資⾦⼒による格差を⽬の当たりにしてきた。
⾃動化が難しい企業では、⼈⼿ ⾜や⼈為的ミスが常につきまとい、⼈の⼊れ替わりがある場合は仕事を覚えるまでの時間や労⼒でロスが⽣まれる。企業が成⻑するどころか、現状維持も危ういケースも多い。
そんな企業にこそテックマンの協働ロボットの活⽤を勧めたい。
そしてその格差問題や⼈⼿ ⾜がより深刻な⽇本の市場でやってみたい、と彼はテックマンの ⽇本代理店を起こす決意をした。
決めたら即⾏動の松本さんはすぐにテックマンの本拠地、台湾に赴き、その想いを伝えた。

タイでの功績を買われ、⽇本代理店の話はスムーズに進んだ。
ついに起業をつかみ取った松本さんが、⾃分の会社に選んだ社名は「プレミアエンジニアリング」。
そう、タイでの⾟く苦い経験のリベンジを必ず成し遂げるという、強い強い想いが社名に込められている。
こうして2019年12⽉25⽇、⾃⾝の誕⽣⽇に、紆余曲折を経て「プレミアエンジニアリング株式会社が誕⽣した。

松本社⻑の⼈⽣を占う試⾦⽯となったように、テックマンロボットは⼈材不⾜に悩む企業の救世主となるかもしれない。どん底からの成功を知る彼は、今⽇もTMロボットを⼿に⾃ら現場を訪れている。
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